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2009年01月 アーカイブ

2009年01月01日

高卒で海上自衛隊に入る

仙石恒史(せんごく ひさし)(映画では真田広之、以下カッコ内は映画でのキャスト)
「いそかぜ」先任警衛海曹(先任伍長)。
高卒で海上自衛隊に入る。劣等感が強く、いわゆる不良だった彼も、自衛隊で長く過ごす中で上意下達に身を任せるようになっていた。自分の艦に対する愛着が深く、『艦は我が家。クルーは家族』と信じて疑わない。離艦後に単身「いそかぜ」に戻る。絵が得意だが、人前では描かない。物語の当初、離婚の危機にある(映画版では妻は既に他界している他、娘の年齢も異なる)。なお、小説ではプロローグの段階で初任幹部時代の宮津と出会っているらしい描写が見られる。
宮津弘隆(みやつ ひろたか)(寺尾聰)
海上自衛隊ミサイル護衛艦「いそかぜ」艦長(映画では防衛庁側の意向もあり副長に変更されている)二等海佐。そして、今回の事件の首謀者。
父親も日本海軍出身で、父に憧れて自衛官を志す。人望に厚く、同級生・先輩後輩・同僚に彼を慕う者は多い。妻と防大生の子供にめぐまれていたが、ある事件をきっかけに全く逆の歯車が回り始める。冷徹になろうとするも、ここ一番で冷徹になりきれない。
如月行(きさらぎ こう)(勝地涼)
「いそかぜ」第一分隊砲雷科一等海士。
少年時代、母、祖父を失い、父を自分の手にかける。その後、ある組織に拾われ、以降その組織の一員として行動することになる。寡黙で、訓練の成果もあるが感情を押し殺している。天才的な絵の才覚を持っている。今回「いそかぜ」に乗艦したのは、名目上はミニ・イージスシステムの習熟者として、「いそかぜ」のクルーに新システムの指導を施すため、横須賀から配転されて来た。との事であったが、実は宮津達による反乱を阻止する特命を受けて派遣された防衛庁情報局所属の二曹であった。
田所祐作(たどころ ゆうさく)(斉藤陽一郎)
「いそかぜ」第一分隊砲雷科海士長。
暴走族を辞めてブラブラしているところを自衛隊地方連絡部の広報官に声を掛けられて入隊した。入隊後も暴走族くずれの気質がぬけなかったが、仙石の推薦で防衛記念章を授与されてからは見違えるように訓練に励むようになり、元々の面倒見の良さから海士達のまとめ役として若いクルーを取り仕切るようになる。仙石の弟分的な存在。海曹への昇任試験を控えている。原作小説の上での設定と比べて映画では主人公やストーリーそのものへの絡みが少なくなっており、既婚者で恐妻家であることを窺わせている。
菊政克美(きくまさ かつみ)(森岡龍)
「いそかぜ」第一分隊砲雷科二等海士。
人間関係がギクシャクしがちな「いそかぜ」クルーの潤滑剤的な存在。幼い頃に両親が離婚して、祖母に育てられた。家には祖母と二人きりで暮らしているが、魚雷訓練中、彼を悲劇が襲う。他の福井作品でも同姓の登場人物[2]はしばしば登場し、同じく悲劇に襲われることが多い。
竹中勇(たけなか いさむ)(吉田栄作)
「いそかぜ」副長兼船務長(映画では船務長のみ)三等海佐。他の主要幹部達と違い、防大出身ではなく一般大学から海上自衛隊幹部候補生学校に入った、いわゆる外様組。宮津の息子、隆史に関する左遷の嵐の中でも幹部に残った。
非常に明るい、いわゆる「ムードメーカー」として描かれている。その一方で、自分の本心や本来の感情をどこか押し殺しているように見える場面も多い。下士官からも好かれる幹部として描かれていて、嫌われ者として描かれている杉浦や風間らとは一線を画した存在である。
杉浦丈司(すぎうら たけし)(豊原功補)
「いそかぜ」砲雷長、一等海尉(映画では三等海佐)。防衛大出身。
竹中とは逆に、規律に厳しく融通の利かない「嫌われ者」として描かれている。神経質で、そんな彼の一面を示すような場面も見られる。映画では積極的にヨンファたちに協力する姿が描かれた。

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2009年01月06日

紀州藩・吉宗家臣

徳川光貞(二代紀州藩主・吉宗の父):大滝秀治
吉宗に武士としての誇りを徹底的に叩き込んだ厳格な父。元気で活発な吉宗に大いに期待をかけた。老齢にもかかわらず、すぐ女性に手を出してしまう。最終回、天国で己の治世を悔いる吉宗を、「卑怯な振る舞いがなかったならばそれでよい」と励ました。
加納久通(吉宗家臣):小林稔侍
吉宗の傅役として生涯を吉宗にささげた男。弱気になる吉宗を時に殴りつけるなど、吉宗を厳格に育て上げた。家重の廃嫡論に真っ向から異を唱え、吉宗を翻意させる。ちなみに小林稔侍は本作の中で一話から最終話まで全話に出演している唯一の人物であり、影の主役とも言える。
有馬氏倫(吉宗家臣):すまけい
御用取次ぎ役として吉宗に仕える。久通とはライバルで、何かと喧嘩し吉宗に怒られる。本音がすぐ顔と言葉に出るひょうきんな性格だが、お庭番を総括するなど幕府の威光を保つため、時に厳格な一面も覗かせる。
お紋(淨圓院、光貞側室・吉宗の母):山田邦子
極めて慎み深い、無欲な女性として描かれる。百姓の娘で、百姓の心を常に吉宗に説き、吉宗が米将軍と呼ばれるまでに農政に執着したきっかけを与えた。
松平頼純(伊予西条藩主・光貞の弟):藤岡琢也
吉宗も慕う気さくでひょうきんな叔父。だが嫡男・頼雄を廃嫡にするなど厳格な一面ものぞかせた。
徳川綱教(三代紀州藩主・光貞長男):辰巳琢郎
聡明で武芸にも秀で、綱吉からも一目置かれた人物。そのため綱吉の次の将軍の座を大いに期待されるも、志半ばでこの世を去る。他の女には目もくれず、妻の鶴姫を生涯愛し続けた。
松平頼職→徳川頼職(四代紀州藩主・光貞三男):荒木計志郎→木村直雄樹→野口五郎
父・光貞を非常に慕う孝行息子でありながら、家臣や女中を足蹴に扱うなど暗愚で偏屈な行動をみせ、極端な性格の男として描かれる。自分を立てようとしない吉宗を大いに嫌った。自分の侍女になるはずだった須磨を吉宗に奪われた際は、吉宗と大喧嘩を繰り広げる。水野重上の諫言も聞かず、危篤の父の看病に帰国する途中で急に容態が悪化、和歌山で変死。
松平頼致→徳川宗直(頼純次男・六代紀州藩主):戸田都康→柄本明
吉宗の将軍就任を機に紀州家を継ぐ。若いころは同じ部屋住み同士の身分という事で、吉宗と放蕩に明け暮れた。吉宗の後を受けて紀州藩主になったが、遊び癖は収まらず、御三家当主なのに正室を娶らなかった。当初吉宗が竹姫の降嫁先として考えたが、天英院・大典侍に年齢の差と遊び癖が問題とされあっさり一蹴される。吉原の花魁連中には疎まれていた様子。
三浦為隆(紀州藩家臣):竜雷太
紀州家に長年使えた家老。吉宗の将軍就任の折も、あえて紀州を離れず、家老として生涯を全うした。
水野重上(紀州藩家臣):黒沢年男
紀州家の家臣。生真面目な性格だが、相当な笑い上戸でもあり、ひときわ大きい声で笑う。
加納政直(吉宗養父・紀州藩家臣):牟田悌三
加納久通の父。幼少の吉宗の養父として吉宗を育てる。吉宗元服時の烏帽子親にもなった。
松平頼雄(頼純長男):寺泉憲
頼純の嫡男だが、隠れキリシタンである事が露になり(史実とは異なる)廃嫡。その後吉宗によってかくまわれ、紀州藩江戸屋敷、和歌山城下、田辺と転々とする。やがて宗直が放った刺客に殺される。頼雄の非業の最期は、吉宗が家重を後嗣に決定する理由となった。
豊島半之丞→土岐朝治:福田豊土
紀州家の古家臣だが、吉宗の将軍就任に際し江戸詰めとなる。家重の養育係を拝命される。
小笠原胤次(紀州藩家臣):森田順平
紀州家に長年仕え、吉宗の将軍就任に際し江戸詰めとなる。しかし環境の激変で精神を病み、まもなく隠居。
中条平助:藤森一朗
聞是院の甥・吉宗近習番。
伏見宮照子→天真院(光貞正室):藤村志保
しとやかで優しい、光貞の正室。わんぱくな吉宗を温かく見守る。
志保→真如院(光貞側室・頼職生母):三林京子
大柄で勝気な女性。お紋・吉宗母子と折り合いが悪く、光貞に何かと悪口を告げ、光貞によく怒られる。吉宗が藩主になってからも難題を言って吉宗を困らせるが、それは息子を亡くして寂しかったからだった。
千草→聞是院(光貞側室):かとうれいこ
若い美女で光貞にひいきされる。志保とは犬猿の仲。
栄姫(光貞長女・上杉綱憲正室):五大路子
吉宗が初めて江戸に行ったときに初対面したかなり歳の離れた姉。赤穂事件の時に夫と共に紀州藩に加勢を要請するが、断られてしまう。
育姫(光貞次女):小田茜
吉宗の姉で幼い吉宗をよく可愛がった。佐竹義苗に嫁ぐがまもなく死去。
お常(吉宗養母・加納政直側室):丘みつ子
幼い吉宗の養母として吉宗を育てる。お紋を説得し、和歌山城にお紋を引き入れた。

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2009年01月13日

こだまちゃん対ベル

「こだまちゃん対ベル」・・霊界のアルバイトを止めてしまって暇になったベルはこだまの学校の運動会でちょかいをだし、最後にはこだまと騎馬戦で戦うことに・・。
「ニセ医者健康診断」・・小学校の身体検査に来たのは偽医者だった。聴診器を使わず女の子の胸を揉むなどの行為に、あまりにも怪しい態度にこだまは偽医者ではないかと疑い、霊次郎を医者に憑依させて心をよませるのだった・・・。その後偽医者にお仕置きをしたベルは霊次郎を同じ境遇にいる幽霊を探しに旅に出てみないと誘うのだった。 おそらく全エピソード中1、2を争う過激度と人気と思われる回。
「誘拐大好き」・・この回より放浪の旅に出る。ふとしたことから巻き込まれた誘拐事件を解決した霊次郎だったがカウンターを身につける以前のことだったので今回の善行はポイントにはならなかった。
「一家心中を救え!」・・田舎の温泉街に来た霊次郎とベルは後進のホテルに潰されそうな旅館のために一肌脱ぐことに。
「犬になりたい」・・憑依の対象を探していた霊次郎は美少女やよいに目をつける。ベルに「あの女の人にとりつくの?霊くんもすきねぇ」と言われるが、霊次郎の目的はやよいの飼い犬クッキーに憑依し、やよいに可愛がられる事だった。登場人物の項でも触れられているが、この回のやよいとの混浴シーンの一幕は必見であり、またよく世に出せたものとも・・・(幼年?少年誌である事を考えるならなおさらである) 雑誌掲載タイトルは「ペット騒動」
「遭難ですよ」・・女性だけで雪山登山をするやよいに付き添い雪山までやってきた霊次郎達。雪崩に巻き込まれ遭難したやよいたちに対して霊次郎はやよいに憑依し、雪穴を掘り、女性同士で裸で抱き合うことを提案するのだが・・。コミックス収録版は本誌掲載時より各ページよりコマを削り、実質2ページ減としている。
「目撃者を消せ」・・いつもHなことばかりしていた霊次郎はカウンターがいつの間にかマイナスとなっていた。あせる霊次郎は追われていた若い女性を助ける。しかしその女性は実は泥棒だったためにさらにマイナスを重ねてしまう。女性はその後偶然殺人事件を目撃し逃げ出すが、再び出会った霊次郎は今度は恥をかかすために女性に憑依し、街中で服を脱ぎはじめるが・・。
「天国からの逃亡者」・・旅の途中天国から脱走した霊がいることをしらされたベルと霊次郎。その脱走してきた霊は以前出会っためぐみちゃんだった。めぐみは霊次郎に成仏する前にデートをしたいと告げるのだが・・。
「宝探し同好会」・・山奥にやってきたベルと霊次郎。山奥には不釣合いな美少女の一行を見つける。一行は先祖が残した宝を探しにきた「宝探し同好会」だった。霊次郎はリスに憑依し、宝探し同好会の面々と行動を供にするのだった。
「ベル好みの男の子」・・人間の女の子に変身し、たまには別行動をとろうというベル。気になった霊次郎は密かにベルをつけると、いじめっ子にいじめられる尾地少年の姿があった。たまらず霊次郎はいじめっ子にとりつき少年を救うが、実はベルは尾地少年を救い仲良くなろうとしていたのだった。その後いじめっ子のお金で皆を野球観戦に誘うが、霊次郎は野球選手にとりついてしまい、自由になったいじめっ子はベルに危害を加えようとするが、彼はベルを救うためにいじめっ子に立ち向かっていくのだった。
「王女を救え!」・・南海の海で泳ぎを楽しんでいたベルと霊次郎。偶然、客船が魚雷により沈められる現場に遭遇してしまう。ただ一人助けた少女はマンナン王国の王女で・・。
「湖での再開」・・旅に出ても自分と同じ境遇の幽霊には出会えずホームシック気味の霊次郎。そのとき湖で旅行中のこだまと立花と再会する。
「逆転サヨナラ」 ・・最終回。霊界のコンピューターのミスにより霊次郎が転生するが、そのときこだまが不幸な事故により幽霊となってしまう。これにより憑依する側とされる側、霊次郎とこだまの立場は逆転となる。

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2009年01月20日

茶道(さどう、ちゃどう)

茶道(さどう、ちゃどう)とは、様式にのっとって客人に茶をふるまう行為のこと。元来は「茶湯」(ちゃとう)「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀遠州は「茶の道」という語も使っていたが、やがて江戸時代初期には茶道と呼ばれるようになった(『茶話指月集』『南方録』など)。

ただ、茶をいれて飲むだけでなく、生きていく目的や考え方、宗教、茶道具や茶室に置く美術品など、広い分野にまたがる総合芸術とされる。

現在、茶道は先発の抹茶道と後発の煎茶道があり、単に茶道というと前者を指す。

茶の大元に成っているものは唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の製法、飲み方、歴史などが詳しく書かれており、まさに茶のバイブルと言える書物である。

茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時の茶は現代の烏龍茶に似た半発酵茶であったようである。当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。 鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。 室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流と成っていく。

わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。

江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎、裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた(禅の極端化にも共通する過度の精神主義であるし、「粋な自分」を誇示する、本来の茶道とは外れた行為でもある)。

他方でこのような遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになる。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。また幕末には、井伊直弼が「一期一会」の概念を完成させた。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式(「結婚式には礼服を着る事」程度のマナ−の範疇である)の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは(常日頃の振る舞いと、その奥底にある心の本質に気を使わないと、本当の意味で人をもてなす事はできない)」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。

江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた。同時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶の法に従い、改めて煎茶の作法を定めたのが煎茶道である。煎茶道は文人を中心に広まり、確立されていった。煎茶を好んだ著名人として江戸初期の石川丈山、中期に上田秋成、後期には頼山陽の名が挙げられる。

明治時代になると、封建制度が崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道を女子教育の必須科目として組み込むことに成功した。このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素も獲得し、今では美しい着物姿での華やかな茶会が当たり前になっている。戦後は海外にも茶道は広まり、茶道の大衆化は世界的レベルとなっている。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心がアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を1906年(明治39年)に出版紹介した。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般的になった。(なお、岡倉が「茶の本」に於いて、欧米人にとっての「茶道」への近似体験として、「ティーパーティでのホストの心遣い」を挙げたことは、「茶を離れた茶道の本質」として興味深い。)

岡倉が茶道に与えた影響は大きく、岡倉の紹介以降、一般的には、茶の湯が茶道という名前に変わった。

1980年代初め頃には、日本の茶道の所作は中国茶(茶芸)に用いられるようになった。 現在の中国茶(茶芸)の「茶巾をたたむ」所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。

2009年01月28日

今山の戦い(いまやまのたたかい)

今山の戦い(いまやまのたたかい)は元亀元年4月(1570年3月)から始まった大友宗麟軍と龍造寺隆信軍との戦いである。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦を指して「今山合戦」としている場合もある。
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今山の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1570年3月
場所:
結果:龍造寺軍の勝利
交戦勢力
大友軍 龍造寺軍
指揮官
大友宗麟
大友親貞 龍造寺隆信
鍋島直茂
戦力
60,000 5,000
損害
2,000以上 -

発端
元亀元年(1570年)3月、大友宗麟は当時、肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために、弟の大友親貞を総大将とした60000の大軍を龍造寺領に送り込んだ。対する龍造寺隆信は5000の兵力しか集められず、佐嘉(のちの佐賀)城に立て籠もるしかなかった。このときの大友軍が如何に大軍であったかということを、『肥陽軍記』では次のように記している。

「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」

戦いの経緯
大友軍は圧倒的兵力を背景にして、遮二無二に佐嘉城を攻め立てた。しかし龍造寺軍の士気は高く、大友軍は佐嘉城を落とすことはできなかった。しかし龍造寺軍には援軍の見込みが無く、このままいけば落城は必至の状況であった。

一方、筑後の高良山に布陣していた大友宗麟は、いつまでたっても勝報が届かないことに業を煮やし、援兵を送って親貞に総攻撃命令を下した。親貞は、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定した。ところが、総攻撃開始予定日の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。

これを知った龍造寺氏の武将・鍋島直茂(当時の名は信生)は、今山の敵本陣に対して夜襲をかけることを隆信に進言する。隆信もこれを認め、直茂をはじめとする奇襲部隊は城を抜け出し、今山の敵本陣の背後に近づいた。そして8月20日早朝、今山の大友軍本陣は鍋島直茂率いる奇襲部隊に襲われ、総大将の大友親貞はこの乱戦の最中に討死してしまった。これにより大友親貞軍は総崩れとなり、今山の戦いは龍造寺軍の勝利に終わったのである。このとき、大友軍の死者は2000人以上に及んだという。

戦いにおける影響
この今山の戦いは局地戦であり、大友軍にとってはそこまでの敗北ではなかったとされる。実際大友本軍は健在で、この後龍造寺側から講和の申し入れがあり、それを受諾して撤退したのである。この後龍造寺隆信は、この今山の戦いで叛旗を翻した肥前国内の豪族を討伐して、その勢力を大きく拡大した。やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ『九州三強』の一人にまで数えられるようになる。

多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。

醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、建武政権から尊氏追討を命じられた新田義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、さらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、1336年、楠木正成や北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州に下る。

尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる。一方、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など、九州の諸豪族の大半は宮方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がる。勢いを増した宮方(南朝方)の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させる。

足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死する。

多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を軒並み味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は南朝方有利の情勢を見て是非なく菊池武敏に味方した者であったという事実が存在する。確かな南朝方と呼べるのは阿蘇惟直ぐらいで、その他のほとんどはもともと日和見、もしくはむしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度南朝方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。

この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え直した。尊氏は一色範氏や仁木義長などを九州の抑えとして残して再び上洛し、摂津国湊川の戦いで新田義貞を破る。

しかし、この戦いの後に中央で足利尊氏が幕府を開いた後も菊池氏は南朝方として頑強に抵抗を続け、さらに南朝の後醍醐天皇の皇子である懐良親王が伊予国の宇都宮貞泰と共に九州に上陸して幕府勢力と戦い、一時期九州は懐良親王率いる征西軍府の南朝方が圧倒的優位の地となる。 のち、観応の擾乱で幕府に反抗した尊氏の庶子足利直冬が九州に来ると、九州は南朝・尊氏(幕府)・直冬の3勢力が鼎立することとなる。

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